帰納的推論で同性愛を「証明」しなきゃいけないワケ

アセク界隈を荒ぶらせたツイート主は、同性愛者は「帰納的推論」によって証明できるのでまだ理解できるが、アセクシャルは反例が多いから、と言っていた。

 

じゃあそもそも証明しなければならない意味とはなんなのだ。帰納的推論というものから考えていく。

 

帰納(きのう、英: Induction、希: επαγωγή(エパゴーゲー))とは、個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする論理的推論の方法のこと。演繹においては前提が真であれば結論も必然的に真であるが、帰納においては前提が真であるからといって結論が真であることは保証されない。(Wikipediaより引用)

つまり、同性愛者は「人を愛すること」という普遍的な、一般的な規則・法則が見出せるので、結論が真であるのではないか?ということだ。

 

ではアセクシャルではどうだろう「人を性愛的に愛さない(その経験がない)」人には「今まで経験したことのないことは、この後も経験しないだろう」という可能性がある。それに対して「今後人を好きになるかもしれない」が反例になるとすれば、それこそ一般的な「人を好きになる」という法則からは外れるので強く批判されるということなのか(こういう哲学的な問題に関しては明るくないのでご容赦)。

 

では「太陽が登っている時、肉眼で星を見ることはなかった」という経験の事実から、今後も肉眼で星を見ることはないだろうと言っている人がいたとして、それが批判されるのだろうか。「星は日中でも空にあるので、日食のような暗くなる日には肉眼でも見えますよ?」とか言ってしまうのか。

その人が少し目が悪かったら?

日食中の空に星が見えなかったら?

その人の経験では生きてから死ぬまで「太陽が登っている時、肉眼で星を見ることはない」し、事実から目を背けたのではなく実践しても見えなかったのだとしたら、それは「肉眼で日中に星を見れない」という結論があってもいいのではないか?それがたとえ一般的でなくても。あなたの目が悪いから見えないんですよ!!!あなたのような存在は一般的じゃありません!って批判されたら普通に辛くないですか?目が悪いのなんて自分が悪いわけでも、コントロールできるわけでもありません。

私みたいに左右差がありすぎて1.0以下のメガネを作らざるを得ない人間だっていますしね。

 

さて、話がズレてしまったので元に戻すとして、どうして証明しなければならないのか。それは「一般的」ではないからです。同性愛が「普遍的なもの」ではないからです(という前提がなければ証明なんて話にならないでしょう)。一般的で普遍的なものと同じ法則を見つけることで一般化しましょうというのが帰納的推論と言えば良いでしょうか。

 

この帰納的推論にアセクシャルを当てはめることができないから存在しているとすら言えなくなるそうです。謎。さっき言ったように「今までその事柄を一度も経験したことがない」なので「これからも経験しないだろう」という推論は間違いなんでしょうかね。そして、机上の空論で証明されなければ私たちの存在が認めてもらえないとかどれだけあなたは偉いんですか?と思うわけです。私としては。

 

同じ机上の空論、哲学の方面で考えてみよう。哲学者のパスカルは神が存在しない場合、信じていようが信じていまいが得することも損することもない。神が存在した時、神の存在を信じていれば天国に行くことができてお得である。また、神の存在を信じていなければ、得も損もない(信じてないのなら期待するものがない)。これがパスカルの賭けと言われているらしい。

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Wikipediaより引用)

 

この理論を使えば目に見えない感情による事象である「同性愛」「異性愛」「両性愛」「無性愛」全てを「信じていれば当事者も周辺人物もお得じゃね?」という理論を持ち出すことができる。どうせ机上の空論でお話しするならこの方がいい。だってアセクシャルやアロマンティックはいつもいつも「悪魔の証明」と言われるんだから、このくらいライトに存在を肯定されたい。