"レインボー"の中に入れるか

レインボーの6色(場合や場所によりこの通りではない)が掲げられ、その人が自分自身である事の肯定や周囲への存在の周知、そして団体として存在する事で安心感が得られる素敵なお祭り……レインボープライド。

 

私は時々レインボーについて考える。レインボーってなんだろう。セクシャルマイノリティのためにあるのだろうか。GSRMをbioに書く私にとってはジェンダーセクシャリティがマイノリティの人のためのものであって、ロマンティックマイノリティは居場所がないなぁと感じることがままある。

自分はマイノリティの人間じゃないよ!と思ってる人の中にもいるんじゃないだろうか。例えば「体の関係がない、恋人のような存在になっている人物」の存在が。それを恋と呼ばない人たちは、皆もれなく「強制的性愛主義者」なんだろうなぁと。そしてそれはレインボーを掲げる人たちの中にもたくさんいる。これに悩まされるのがロマンティック・アセクシュアルだ、と思う。

 

私自身は大切にしたい人物がいる。だが、恋はしてない。強制的性愛主義者に追い詰められる1人、アロマンティック・アセクシュアルだ。恋でも、性愛でもない愛情が、まったくの赤の他人に対して確かに存在するんだ!と言っても「証拠は?」と聞かれれば答えることができない。同性愛者やバイセクシャルパンセクシャル、その他諸々あるんじゃないか?「本当にそうなのか?証拠は?」と自他に首を絞められることが。

アセクシュアルでない人は簡単だろう、抱くか、抱かれるかができれば良いのだから。私の体はそれを求めていると主張すれば、世間一般の恋人像に馴染み、比較的受け入れてもらいやすい状況を作り上げることができる(それすら難しいのは承知の上で)。

恋ができても性愛がないロマアセクは「抱けない、抱かれることができないなら……」と言われ、私たちアロマアセクは愛情の存在すら疑われ、証拠を指し示すことができない。

だが確かにそこに存在するのだ、愛が。

 

レインボーの中に、私たちAceが立ち入ることができるのだろうか。その中で、私たちが安心してプライドフラッグを掲げて……いいや、掲げることすらしなくても認知されてパレードができる日が来るのだろうか。

今はまだ遠い先の話だろう。なんせ、主義主張が真逆だ。人を愛する自由を掲げ、どうしてと問われれば己の願望を指し示せばいいLGBと、自分の辛さや治療経験などを指し示せばいいT。それと対比するように「人を性的に愛さない自由」を持つ、問われても指し示す証拠すら出せない私たち。LGBTの広まりまでの道のりは長かった。だから、アセクシュアル の道のりもまだまだ遠い。アロマンティックをはじめとするロマンティック・マイノリティたちも。その先人になるのは私たちと考え、無闇矢鱈な言動は控え、地道に進んでいくしかない。それが、私たちができる土台造りだ。

ネットでの情報拡散は先人たちがやってくれた。アセクシャルの言葉と同時にノンセクシャルという言葉も広め、アロマンティックとロマンティックの差を示してくれた。Ace界隈ではロマンティック・マイノリティについての認識が広まっている方だと思う。これから私たちができることは、その情報をさらに正しく伝えること、LGBの主張に心が折れないくらいのバックボーンを作ることであると考える。

 

私は以前、セクシャルマイノリティの集まりで恋人探しのために来ている人に遭遇した。

"そういう目"で見定められていたという事実がひたすらに不快だった。恋愛至上主義の集まりであるという様を見せつけられたように思えてならなかった。マイノリティの場ですらマイノリティであると突きつけられた気がした。

……ショックだった。

 

想像して欲しい。世の中のマイノリティであると知って、ショックを受けた人は多いのではないか。マイノリティに対する世間の目が怖いと思ったことはないか。マジョリティの言動で傷付いたことはないか。私たちは安全地帯と思った場所で同じ経験をさらに繰り返す事になる場合がある。これが結構つらいのだ。

 

私たちは今、過去のLGBと同じ場に立っている。まだきっと知られていないだけなのだ。私の主張はただ「恋愛をしなければダメですか?」「人を愛するときに、必ず性的行為をしなくてはなりませんか?」「人を愛さなければならないですか?」それらに「いいえ」と答えて欲しい、それだけ。今はまだ、社会的な何かの変更や享受は求めてない。ただ自分たちの存在を知って欲しい、受け止めて欲しいだけなのだ。どうかLGBTの集まりが、レインボーの集団が、私たちも一歩踏み入れられる環境であってほしい。可能なら、私たちの「プライド」に笑顔で手を振って欲しい。

 

切実にそう思うなど。