感情移入と感情の言語化

私は昔から感情を言葉にするのが苦手だった。しかし、小説や漫画などへの感情移入はかなり得意な方であったと思う。小・中学生の頃は「本が友達」のような人間だった。高校に入ってからだんだんと小説を読まなくなってきた。それ以外のものに費やす時間が大幅に増えたからだ。大学に入ってからは顕著で、1冊すら読みきった覚えがない。教科書やレジュメ、自分の専門分野の本ばかりに目を通すようになっていた。

 

最近ネットの友人と通話しながら映画を見るのにハマっている。現在見ているのはホラーが多い。しかしどうも私はホラー映画に対しての感受性が悪いのか、ズレてるのか、いまいち「怖い」という気持ちになれない。これ本当にホラー映画?と思いつつ、演出を楽しんで終わってしまっている。

 

例えば、突然何かが視界に入ってくる(覗き込んでいるとバッと顔が現れる、不意打ちなど)だとか、追いかけられているだとか、そういう「明白なホラー演出」は怖いと感じるのだが、予想ができるもの(ここでドア開けたらいるだろうな〜とか、これ絶対聞いてるよね……ほら!とか)そういった物に恐怖を感じない、登場人物に感情移入できていない自分に最近気付いてしまったのだ。

 

昔はできていたと思ったのにおかしいな……と感じた。そのため「感情移入 できない 病気」という検索候補があったため見てみることに。そこには「失感情症(アレキサイミア)」というものがあった。

 

簡単に言えば感情の認知に関する障害がある、というものだ。『自分の感情を認知、自覚したり、表現したりすることを苦手とし、想像力や空想力の欠如を示す特性です。心身症発症の仕組みの説明に使われる概念ですが、近年は共感能力、衝動性の欠如等、ストレス対処や対人関係との関連が研究されています。』 https://epark.jp/medicalook/alexithymia/ とのこと。

 

このページの具体的な症状の中に当てはまるものがたくさんある。

 

・他者とのコミュニケーション苦手

・気分が悪いと感じたら、無意識に考えないようする
・嫌な気持ちになった場合、気分を解消する行動をとらずにはいられなくなる
・本を読んでも登場人物の気持ちを感じることができない。
・泣いているのに自分が泣いているという実感がない。

 

自分は他人とのコミュニケーションが苦手であったが、今現在はそこまで悩んでいない(心理学を学んだおかげだろうか)。

しかし、昔からストレスに対して考えないようにする、という手法はずっと取ってきていたように思う。いわゆる不可視化だ。嫌な思いをした、つらい。だから〇〇してストレス発散しよう。というのが今までの定番のパターンだった。いやむしろそれしかしてこなかった。そうするしかなかった。嫌なことだらけで思考停止するしかなかったのだ、解決方法がなかったから(母との確執は母親から離れないと解消することはできないのが明白だったため「嫌い!イライラする!だからお菓子をやけ食いだ!」というパターン、「人間関係拗れたから話し合ったけど聞く耳を持ってくれない、話を聞いてくれないんじゃもうどうしようもない。だから他の仲の良い人たちと馬鹿みたいに笑えることをして楽しいことしよう」というパターン等)。

本を読んでも登場人物の気持ちを感じることができない、これは今振り返るとそうだった、というものだ。私は例えば西尾維新戯言シリーズが好きだが、あの物語に感情移入するのは難しいと最初から諦めていた。では何を楽しんでいたのか。私は西尾維新の文章の韻を踏むようなリズム感のある文章が好きだった。スイスイ読めるのだ。楽しかった。言葉が踊るような文章に心がときめいた。しかし思い返してみて、はて、私はどの話が好きだったのかな、と。思い出せないのだ。私は彼の作品ではなくて、文章力が好きだったのだ。

逆に言えばねちっこい文章を書く作家の作品は苦手だ。読んでるうちにお腹いっぱいになって読み進められない。筒井康隆の「パプリカ」は映画化もしていて、映画は好きだ。しかし、原作は読んでるうちに挫折した。小・中学生のときは文字を追うのがただひたすらに楽しかっただけなのだ。だって、思い返して好きな本はなんですか?思い出の本はなんですか?と聞かれても、本の虫だったはずの私は何も答えられなくなる。

そして最後の「泣いているのに自分が泣いているという実感がない」というもの。これは経験がある。苦い経験だ、大学のAO入試の面接で喋りながらボロ泣きした。用意していた文章だったのに、喋っているうちに涙が次から次へと流れていった。しかし不思議なことに、当時の自分はなぜ泣いているのか、なぜ止まらないのか、分からなかった。他にも精神科で喋った時に涙が止まらなかったり、カウンセリングを受けてる時に涙が止まらなかったりという経験は多々ある。

幸い泣きじゃくって喋れない、などとはならずに話すのには支障がなかったため喋り続けた。ただ自分が過去に経験したことを話しただけで、つらいと当時は思ってたかもしれないが、今は気にしていないようなことだったのに、涙が止まらなかった。先日の「月経について」の時にも泣いて彼女を追い返してしまったが、何故泣いたのか、なぜ追い返したのか、じっくり検討してみて「きっとこうなんだろう」と考えて理由づけしてはみたものの、実際自分がなぜ泣いたのか分からないまま、というのが本音だ。

私はよく泣く、泣きむしだ。しかし泣いてる理由がわからないことが多い。泣きたいなどとは思ってないのだ。しかし、止めどなく涙は流れてくる。感情失禁は起こすがその理由がわからない。ずっとそう思っていたが、アレキサイミアなのかもしれない、とふと思った。

 

ADHDの診断を受けてはいるが、自分はあまり多動や衝動性は高くない、と思っている。どちらかというと躁鬱になってからの方が多動性や衝動性のコントロールが出来ていない。アレキサイミアには、衝動性の欠如があるらしいのでもしかすると注意欠陥・多動性・衝動性の障害であるADHDの衝動性を打ち消していただけなのかもしれない。

 

私が今まで映画の世界に楽しさを見出せなかったのは、感情移入ができなかったからなのかもしれない。作品の演出や世界観に没頭できるのは最高に楽しい。しかし、登場人物に感情移入できないだけで、今回で言えばホラー映画での登場人物が感じている恐怖を私は感じられずに楽しめなかった。友人は「良い映画だ」と言っていたが、私はあまり楽しめなかった。そう思うと少し寂しい。

 

最近ツイッターでよく見かけるツイート( https://twitter.com/seruko/status/1263478470807609344?s=21 )にもあるように、ストレスは愚痴などでちゃんと言語化してアウトプットしなければならないとは思っている。しかし上でも書いた通り、私は今まで言語化したりせずにストレスは全てスルーして、溜め込んで生きてきた(その結果が躁鬱ですよ)。不可視化して、なかったことにして、心の平穏を保っているとずっと思っていたが、授業でも学んだ通り「何に対してどんな気持ちになったのか」を書き留めるだけでもストレス発散に効果があるのだ。

ツイッターをするようになって簡単な愚痴は吐けるようになった。モラハラ元彼には「お前はツイッターに向いてない。愚痴を聞いてあげるのは甘やかしてあげているんだ」という人も世の中には多いのだろうが、言語化して、ツイッターの海に流してしまうというのは想像以上に大事なことだと思う。だからこんなにも発展してユーザーもたくさんいるのだと思う。

私がこれからやらなければならないことは、ストレスや感情の言語化だ。精神科の診察で相談するためのノートを作ったり、こうやってちまちまとブログを書いてみたりしている。

 

いつか作品の登場人物に感情移入ができるようになるだろうか。もしできるようになったら、きっと私は楽しいことがもっとたくさん増える。そうなれば、ストレス発散の方法がもっと増える。私にとっての幸せに繋がっていく。

 

まだ気付き始めた最初のワンステップを踏んだところだ。これからもっとステップを踏んでいけるだろうか。